4.文化システム・倫理
宗教文化と地球平和
吉田宏晢
序論
吉田です。このテーマに関しましても、伊東先生と同じで、私が考えたものではございませんが、内容としては今回の大会に相応しい、しかも4つのテーマの最後として、前に提起された諸問題を踏まえて論じられることが要請されているようなテーマであると思います。
このテーマは非常に大きな問題でありまして、どこから手を付けてよいかわからない。ただ今、文明と文化ということで、大変明快に伊東先生の方からご提示があった訳でございますけれども、その文化の中の宗教文化ということと、それから地球平和ということ、この二つがどう結びつくのか。宗教文化はさておいて、今回のテーマは世界平和ではなくて地球平和ですから、そこには当然、先ほど、伊東先生がご指摘になった第6の革命である、環境革命の問題が含まれてくる。つまり、これまでは世界平和が希求されていたがそれだけでは済まないぞ、地球そのものが将来危機的な状況になってくるぞ、しかもそれは現在の我々の行為が招きよせる結果なのだぞ、という問題が提起されている。そこでこの問題にアプローチするには幾つかの段階を設けねばならないと思います。
(1)それは先ず第一に、
世界平和にとって宗教文化はどう関わってきたか、あるいは関わることが出来るかということだと思います。
(2)第二に
地球平和というのは勿論、世界平和を前提にしてはじめて成立するテーマであるかと思いますが、しかし世界平和だけでは解決がつかない問題を提起している。すなはち、例えば世界平和だけならそれは主として人類だけの問題であるが、地球平和になってくると、地球上のあらゆる生命の問題でもある。さきほど、第一セッションで鷲谷先生が地球上の生物の多様性が急速に破壊されている状況を明らかにされましたが、実はこのような破壊は世界平和であっても、あるいは逆に世界平和であればあるほど人類の生存のために動植物の多様性が破壊されていく、という矛盾すら持っている問題である。更に、地球の資源の有限性と言うことにとっても、世界平和はこれを解決する鍵ではなく、生物の多様性と同様世界平和が実現すればするほど、資源は益々枯渇するという矛盾的な性格の問題であると言うことが出来ます。
(3)このような状況を踏まえた上で更に第三に、
今度は地球平和と宗教文化がどのように関わってくるかということが明らかにされなくてはならない。世界の宗教の中でこれまでこのような地球平和といった問題に関わってきた宗教は存在していない。それは地球平和という課題がこれまでの人類には提起されていなかったからであり、従って宗教もこのような問題に対する回答を与える必要はなかったからである。ただ、世界の宗教の中にはこの問題の解決に対する生命観あるいは倫理観、行為論を原理的に持っていると考えられるものがあり、これは後ほど明らかにしたいと思います。
(4)更に第四に考察されなければならないことは、
宗教と宗教文化の違いであります。ふつう宗教というと道徳や科学や芸術、政治、経済といったジャンルとは異なる領域に関わるものであり、人間(生命あるものという捉え方もある)の生死(あるいは死後の問題)の不安や恐怖に対するある種の回答を与えるものということが出来るかと思います。そしてその回答はどのように形成されたかと言うことまで含めてそれぞれの宗教の教義があり、その教義によってそれぞれの宗教の差異が規定されてくる。宗教文化はその教義に基づいて形成された教団や教団の規則、その教義に基づく宗教儀礼や行事・祈願・修行法、さらにそのための建造物や法具等がある。そこで宗教文化という場合は、地域的・歴史的に形成された、宗教に関わるこれら全て、及びそれら宗教文化によって形成されたその地域あるいは国家の構成員のエートスまでを含めた全てを指すと理解しておきます。
さて,議論の前提として、第二の問題設定のうち、地球平和という事によって新たに考えなければならない諸問題を、ここで予め設定しておきます。前述の如く、地球平和という課題の設定は世界平和という問題とは異なる視座を必要とするのですが、それではその異なる視座とは何かと言うことであります。
それらを列挙すると、以下のようになるかと思います。
1 地球資源の有限性
2 地球環境問題
3 世代間倫理の確立
4 地球平和への方法論とその具体的な実践への提言
5 地球平和に向けての宗教文化の果たす役割
これらの項目のうち、1,2,3,は、当に今日の地球上の人類を含めたあらゆる生命が50年〜100年の近未来の間に直面している諸問題であります。ただこれら3問題とその関連についての詳細な研究は、これまでに多方面からの研究があり、かつこれからは本学会においても絶えざるシステマチックな総合的研究がなされていくと思います。その場合、特に意を用いるべき事として、1と2の問題に関して言えば、特に近・現代の高度な科学技術文化とそれを推し進めてきた、社会・経済・政治こそが、今日の事態と想定される未来の危機的状況に対して、その主たる要因となっていると言うことであります。そこでもし、現在及び未来の資源及び環境の劣悪化の原因が、社会・経済・政治にあるとするならば、それを解決する方法は、その原因を改める事に依るしかない。その場合、今日の事態を招いたもう一つの要因としての科学技術文明・文化はこれを否定するわけにはいかない。勿論、社会・経済・政治もその有り様を変えることは出来ませんが、ただこの現状では将来このような危機的な状況になるであろう。これに対して個々の国家や・企業や地域の人々、一人1人の個人がどうゆう認識を持ち、どう対処していくかという方策を考えて、これを実行していく。これらの現状認識と、将来的な対応策は環境学とか宗教学とか言う個別の分野を超えて、あるいはそれらの共同作業による知見の集積と構築、情報の交換・伝達が試みられることになります。但しこれらのことを可能にする条件として、先ずはこの領域の先行研究の調査と、方法論や哲学が必要であります。今回の私の課題は「宗教文化と地球平和」ですから、宗教ということに視野を限定して、宗教が地球平和にどのように関わるか、どのような解決の方策を持つかということを、原理的に考察していくことにしたい。
本論
さて、「宗教文化と地球平和」といったテーマを論ずる場合、当然の事ながら各宗教の教義が先ずは問題になる。
1) 宗教文化と世界平和
今日このようなテーマが取り上げられる大きな理由は、何よりも2001年9月11日のアメリカにおける同時多発テロ、就中ニューヨークの世界貿易センター爆破テロと、それに続くイラク戦争の勃発とその泥沼化にあると考えられます。人類はその誕生以来、戦争と平和・破壊と創造・繁栄と滅亡に明け暮れていたといっても過言ではありませんが、特に第2次世界大戦以降は、核戦争という人類滅亡の危機を内包した冷戦構造の継続と、ソ連邦の崩壊によるアメリカの一極支配体制の確立があり、それを脅かそうとするデスペレートな試みが、国家という枠を越えたテロリズムの跳梁であり、またこれを押さえ込もうとする国際的な防御と攻勢の現況であると言えるでしょう。そして、このような状況形成の背景に、イスラム原理主義やそれに対抗する宗教文化があることは否定すべくもありません。勿論、テロや戦争が主義や思想・信仰だけによって起こるものだという単純な図式を主張しているわけではありませんが、現代のテロリズムや戦争の背景に、宗教の教義や信仰が色濃く影を落としていることを否定出来る人は誰もいないでしょう。もし以上のように考えることが正しいとすると、宗教文化は世界平和を根本的に解決する方策を持ち得ないのではないかという疑念が生ぜざるを得ないものとなります。しかし個々では以上のような指摘にとどめて、主題であり地球平和の問題に移っていきたいと思います。
2) 地球平和とは何か
先ほどの伊東先生のお話にもありましたが、それぞれの文明や文化の異質性が尊重されなければならない。
それの一つの形態が仏教でありまして、それは2500年という歴史がありますけれど、その中で人間の存在とそれを越えた存在の問題、業とその果報の問題、それから人間もその一つの形態である命あるもの(衆生)とそれを越えた存在(仏)との関係、衆生から仏への転換・転換の方法の問題等を追求してきた歴史があるわけです。これはある意味では今までの発表とは違った、というのは今までの発表というのは我々の外的な世界が、科学的に、あるいは文化的に、文明的にどうなっているかという事に対するご発表であったのですが、これらは人間存在の科学とか文明とか文化とか地球環境とか、その全てに対して自分は関係しているにもかかわらず、、自分は抜きにして、対象化された形でで話がされていると言うことが出来ます。そこで、それでは自分はどうなるかというと、そこには、どうもなかなか、伊東先生が仰ったような3つの提言がございましたが、それを実際に自分の利害とか生命の問題とかということになって、不殺生とか共生とかということを貫き通していくことができるかと問われると、ちょっと待てよとなる。例えば自分が殺されようとしている時に、黙って殺されてしまうのか、という事もございましょうし、じゃあ共生ということでも、お互いに食べ物が無かった時に、皆で分け合っても絶対量が足らなかったら、どうするのかと、そういう問題がおこってくる。その時に我々一人一人がどうするか、という事が、最後に問われなければならい問題である。そこに人間というものをどう捉えてきたか。また人間とは違った存在としての仏教の場合には仏陀ですね。その仏陀はどういう存在であるか、ということを究明してきた歴史が仏教の歴史だと思いますけど、それを極めて哲学的な方法で、展開している仏典というものがございまして、その仏典にはお経とか論がございますが、そういうものを通じて、その問題について何らかの提言ができればと思います。
3)仏教の教義と地球平和
1 無常性・有限性の超克
イ 釈尊仏教
今、お手元に渡してあります資料は、発表資料Aでございまして、発表資料@はプリントしていなかったものですから、ここにはでてこないのでございますけど、ただこの発表資料Aを通じながらお話を進めていきたいと思います。
まず仏教ということが、どういうものであるかということについての、最も一般的な認識というのは、日本仏教の中では十分一般的な認識としてなっていないものがあります。それは何かと申しますと、釈尊が一番最初にした説法です。これを皆さん今手を挙げてもらってもよいのですが、どういう説法をしたかご存じの方、半分いらっしゃるでしょうか。これを知らないということはある意味では仏教というものを全然知らないということなのです。どういうことを説いたかというと4つの真理ということを説いたのです。四諦と言いますが、諦とは真理という意味、四つとは苦・集・滅・道であります。そのうち苦諦とは「一切が苦である」という真理。その苦には「原因の集まり」があります。これが集諦です。それからその苦を無くすためには、その苦の原因の集まりをなくせばよろしい。その方法が、というより方法と実践が道(道諦)であり、その実践の結果一切の苦が消滅した境地が滅(滅諦)である。この滅というのは仏教で言うところの涅槃です。この涅槃は一切の苦の滅ですから、大安楽の境地ですね。ですから仏教ではまずもって一切が苦であるという認識の仕方をした。苦であるというと大変ペシミスチックに聞こえますが、実際はそういう苦的な存在を転換して、大安楽の境地に至るのが仏教の目指すところであるということであります。
これは先ほど安田先生が仰っておりましたが、仏教は現実肯定の宗教で、仏教の最終的な結論はそこなのですね。ただ最初から楽だとか自由だとか言うのではなく、お釈迦様はまずは現実は苦であり思い通りにならない、と言われたのです。そこでそれでは何故苦であるかというとそれは無常だからだという風に、無常というのは常ではない、全てが移り変わっていく訳ですね。生住異滅という四つの様相で移り変わっていくのでありますけれど、苦であるということは、いろんな言い方がされております。たとえば三苦という言い方があり、一つは苦々、これは病気だとか、あるいは心の苦といった逼迫した状態が苦々ですね。それから物が壊れていく、滅していく、壊苦というのですけれども。それから行苦と言いまして、我々が行為をしているときに起こってくる苦です。それとは別に、四苦八苦という言葉があります。この四苦というのは生老病死でして、これはお釈迦様が出家をした時の動機だったと言われておりますが、要する年を取って病気をして死ぬという、老人、病人や死者を見て、自分もそうなるということに対して、それを何とかしなくちゃいかんということで、城を出てしまった。その後で、老病死だけではなくて、生まれるということもその中に含めた。生老病死というのが四つの苦であるというふうなかたちで苦というものを捉えた。これは元々の言葉はドゥッカ(duhkha)といいまして、意味は苦しいというよりも、思い通りにならないという意味ですね。これは非常に重要な問題ですけれども、苦であるという風に捉える捉え方と、思い通りにならないと捉える場合、思い通りにならないと解釈したほうが良くわかる。どういうことかというと、まず生老病死ということは、まず生まれるということですね、「生」は、それは思い通りにならないですね。我々が生まれるということは思い通りにならない。自分の意志で生まれてきたわけではない。それから「老」もそうです。歳を取るということに対して我々はこれをどうにもしようがない。いつまでも20歳でいたいといっても、そういうわけにはいかんというのが、老苦ですね。だから老は苦であります。そして病も苦です。死もそうです。死は思い通りにならない。生老病死は思い通りにならないということであって、これが一切皆苦ということで、それは無常から来るもの。その認識が一番最初にあって、それが真理である。ですからそういう意味では、これは個体の生老病死でもあるし、あるいは組織体や、国家や文明というものの生老病死、あるいは地球の生老病死でも良いと思いますが、そういう中におかれている、只中におかれているというのが、仏教のさしあたっての存在認識である。驚いたことにインド人は人間や生物だけではなく、宇宙も生住異滅の四相を繰り返すと考えていました。(これは始めがあって終わりがあって一回限りものだという宇宙観とは大変違っています。)ですからあらゆる外的な世界や宇宙の生成と消滅現象というもの、あるいは平和・戦争とか繁栄・貧困とかいったそういうあらゆる問題が、全て苦的な存在としての、人間や生命、天体など形あるものの存在論的な位置です。
ただ、一切は苦であるということで終わりではなくて、如何にしてそれを解決するか、乗り越えるかということが釈尊の出家の動機だったわけです。そして29歳の時に出家して、35歳で悟った。その悟った時に生老病死等の苦を解決した、乗り越えたと、釈尊自身もそう言ってますが、それを解決した時に結果はどうなったかと言いますと、一切の苦が滅したわけですね。それで苦の滅という真理が3番目に出てきますが、その滅というのは、苦が無くなったということ、それはどういう境地かと言いますと、安楽の境地、大安楽の境地といわれています。「大」という字を付けるのは苦楽を超えたという意味で「大」という字を付けるのですが、苦も楽も、普通の我々の苦楽というのは、全部相対的なもので、楽が苦になり、苦が楽になる、楽であればあるほど、楽を成立せしめている条件が無くなれば、それは大きな苦になるという意味で、苦楽というものは相対的で条件的なものですが、所謂仏教でいう涅槃の楽というのは、苦楽という相対を超えたところにあると解釈されている。もうひとつは苦であるというのは、思い通りにならないことですから、その思い通りにならないということが無くなったという意味で、自由である、これは解脱・涅槃とも言いますが、これはその頃のインドの思想でいうと輪廻転生という生命体の存続の、あらゆる生命が輪廻転生しているという考え方があったのですが、そういう継続の輪廻転生から解放されたという意味で自由だと、そういう大自在、大安楽の境地に到達されたと解釈されている。これを釈尊は、一番最初の説法で、苦集滅道という4つの真理として説いたと言われているんですね。実はそれが根本にあって、それを如何にして、こういった仏の覚り、あるいは大安楽、大自在の境地に到るか、という追求が仏教のその後の歴史といっても良いと思います。いずれにしても、仏教は最初から、自己を含めた一切の存在の有限性・無常性という事実の上に立って、その解決を目指し、かつこれを解決し、その解決の方法を説き、その解決を目指す人々の集まりを結成し、その生活を実践し文化を形成してきた一大宗教運動であるということが出来ます。
ロ 仏教教義のその後の展開
専門的な話になりますが、それには幾つかの歴史的な段階がある。私が今資料としてあげたのは、大乗仏教と言われている方の仏教の資料でございます。詳しいことまでは全部言えませんけれども、つまり仏教でいっていることを解りやすく話すにはどうしたら良いか、つまり仏教の所謂釈尊の四諦とかということは普遍性があると思いますし、大乗仏教の空の思想とか、縁起の思想とかも普遍性があると思います。しかし、ではこれらが人々に了解可能かということになってくると、例えば『般若心経』の空とは一体何なんだ、同義語反復とか、パラドキシカルな言い方しかしていないじゃないかと、普通の考えでは受け取ってしまう。『般若心経』で言っていることは大体、大乗仏教の基本線になっているわけでございますけれど、それを現代の人々に解りやすく話そうとしたらどうなるかということが、私が考えていることでございます。「仏教教義と地球平和」等といっても仏教教義がわからなくては一向に話は進まない。
それは人間がものを考えていくということと、現実に感性的に生きていくという中で、特に現代はですね、例えばインターネットとか、電話とかそうですが、顔が見えないですね。言葉だけが飛び交っている。例えば今の戦争でも、ボタン一つで核爆弾を落とせる。あるいはミサイルを発射できる。そこには殺し合いをする時の、相手がどういう顔をし、自分がどういう顔をしているといったことが一切見えないで行われてしまう。それは今の情報化社会の中では戦争だけではなく、現実の生活の中でそういうことになっている。そういう事を考えますと、一体人間というのは、そういう情報だけの世界で生きているというのは、全く異常な事だと思います。そのことに関して、もっと根元的に物事を考えた人間がいて、それは一番最初に問題提起したのが龍樹という人です。これは二世紀頃の人ですが、資料に「眼は良く自らを見ず」と言っていますね。つまり眼は自分の眼で、自分の眼を見ることができないと言っている。別のところでは、だから眼は何も見ることができないと言っていますが。とにかくこれを考えてみると、我々は自分の顔を見ることができないということですね。これは大変なことで、つまり宗教というのは死というものを問題にするのですが、死というものは色々と死後ということを考えて、そこで死後どういう風な状態になるかということを色々想定して、色んなものを作り上げていく。それに宗教が関わってくるのですが、仏教の場合それはどうなのか。
死んだらどうなるかという時に、死んだら自分がどこにいるのかということをどの眼で見るのかと、つまり自分の肉眼では自分の死体は見えないわけです。瞑目してしまうのですから。だから我々は瞑目した時に、自分の、もちろん顔も見ることが出来ないけれども、周りの世界も見ることが出来ない。死んでから先は肉眼では見えない。それでは生まれる前はどうかと言いますと、生まれる前も見えない。臨済宗の公案に「父母未生以前、本来の面目如何」というのがありますが、これは夏目漱石が鎌倉の円覚寺の塔頭の帰源院で座禅した時に与えられた公案であると言われていますが、そこで漱石は考えた末に答えを持って行ったら老師から、「そんなもんじゃ駄目だ、もっとギロットとしたものをもってこい来い」と言われてすごすごと帰ってきた。それは後で『門』という小説に書いておりますが、結局自分は寺の山門の中には入れない、だからといって世俗の世界には愛想が尽きてしまったから元にも戻れない。結局、山門の下に佇む人間だと言っている。この公案は「おまえさんの顔、本来の面目は、父母未生以前に、何処にあったか」ってことです。これは解りっこないのですけれども。ただよく考えてみると、自分の顔は自分が生まれる前も死んでからも見えないのですが、それでは今見えるかというと、これは見えないのですね。生まれてから死ぬまで、自分の素顔というのは見たことがない、見ることが出来ないのです。そのくらい人間というのは大したことがない。そう言っては身も蓋もないと言われるかもしれないけれど、しかし龍樹という人は、ちゃんとそれを見抜いている。そして人間の存在のあり方を、非常にわかりやすいところで話をしている。それからもう一つあります。人間が自分の顔を見えないだけではなくて、犬や猫も見えません。そして、人間存在と同じく、動物たちもやはり無常性を逃れることができない、そういう意味では人間存在というのと他のあらゆる命あるものというのは同じであります。(仏教はこの事実の上に立って、不殺と共生ということを根拠づけている。)
では人間と動物とを区別するものは何かというと、これは言葉です。つまり、人間は自分の眼で自分の眼を見ることが出来ないと言うことを知ることが出来るが、動物は知ることが出来ない。何故知ることが出来ないかというと、動物には言葉がないから。従って言葉は、それが人間と動物とを区別する最も根本的なメルクマールだと言えます。そこでそれでは、言葉というのは何か、ということが仏教では最も真剣に考えられた。この言葉についての議論は仏教論理学の歴史の中で果たされますが、基本的には言葉というのは、結局、言葉の指示する対象とは同じではないということを、ディグナーガという5世紀頃の仏教学者が言っておりまして、つまり火という言葉と火そのものは同じではない。これは存在論的、認識論的というふうに分ければいいかもしれないですが、言葉とその指示対象とは存在論的には違っている。まあ違うからこそ、言い表すことができるのであって、例えば月を指す指は月とは違うから月を指差すことが出来る。他方、言葉とその指示対象とは認識論的には同じである。換言すれば、言い表す言葉と言い表されたものとは共通理解としては同じである。この共通理解は民族や地域によって違いますから、日本語で「りんご」と言うものを、英米では「Apple」と言い、ドイツ語では「Apfel」フランス語では「Appe」等となる。ところが我々は大概、言葉と指示対象は同じものと考えている。そこで、言葉と指示対象を同じものとして考えているから、100万円やるよと言われるとそれは言葉だけなのか実際にくれるのかなどとは考えずに素直に喜んでしまうし、頭がいいとかポーズがいい等と言われれば、やはり喜んでしまう。俺々詐欺にも引っかかる。これは言葉と指示対象が同じだと信じているからそういうことになる。ところがディグナーガは、いや、そうじゃないと、もし火という言葉と、火そのものが同じだったら、火といった時に口から火が出てこなければならないと言ったのですね。これが正に根本的な問題であって、人間は言葉を用いることによって動物と自分自身を区別し、それと同時にいわば自然というものと自分自身とを区別してしまった。そしてそこから分明と過分かが発達してきたのですが、仏教はこういう言葉だけで構築する世界を世界を戯論分別という形で否定してしまった。そういう言葉の世界だけで生きていては輪廻転生を乗り越えることは出来ないというのであります。
ある言葉について考えてみましょう。たとえば「我」という言葉ですね。「我がもの」という言葉ですね。「我」とか「我がもの」というもの実体的に考えていては駄目だ。我なんかどこにも無いではないかというのはお釈迦様がいつも言われていることです。これはエゴといいますか、そんなものは何処にもないではないかと、そういう時に生まれる前から我がある、死んでからも我があると考えるのは間違いで、顛倒(有るものを無いと言い、無いものを有るという)だと言うのですね。そこで、その無我を実際に実践していったのが、所謂小乗仏教というものですが、大乗仏教になってくると、所謂言葉によって説かれる教えですね。その教えも実体がないじゃないかと言うことになってくる。教えは月を指す指なのであって、大事なのは指を見るのではなくて、月をみること、つまり自分自身が悟ることだと言う。指だけ見ていたって月は見えない、指の先にあるものを見なければならないという風に言った。禅宗などはこれを「教外別伝・不立文字」などといっていますが、大乗仏教ではこれをどう言っているかというのは、資料の線を引いてあるところがそうです。それは例えば、1頁の「我法を仮設するによって、種々の相を転ずることあり」、我とか法とか実体視する、つまり仮設することによってという言い方をしています。あるいは2頁の方には結局、その我法を仮設するという、それを認識論的に言うと、主観と客観というか、これは能取、所取といった言葉になっていますが、その能取、所取という形で、我々は自分が、自分というものを対象化して、それを実体視していくという認識の根本的な構造があり、そしてそれを所取、能取という形で捉えていく(これを実体化してしまうのがふつうの認識です)。つぎに所取、能取という形に実体があるのかと観想して、所取は意識の中にあるだけであって、実体があるわけではない。所取が無ければ能取(主観)も実体性がなくなる、という形で捉え返していると、それが2頁にございますような、下の偈に対する、線を引いてあります。「所取が無ければ能取もまた無し」という形で唯識思想でははっきりとそのことを説いている。そういう観法がございまして、見る見られるという対立を離れるという、これは西田幾太郎の純粋直感を理論的に解明していると言えます。これはまた別の形、三性説という形で言ったのが唯識関係の思想ですね。
これにつての詳説は省略しますが、この唯識思想とは別の系統として、如来蔵思想とか仏性思想というものがございまして、これはまた違う捉え方をしているわけでございます。つまり今度は覚りということが、先ほど一切衆生悉有仏性ということを言いましたが、釈尊だけが覚るのではなくて、誰もが仏性、あるいは如来性というものを持っているのだという考え方がございます。それを説いているのが、例えば『仏性論』という、6頁にございますが、何故仏性を説くかということと、仏性とは何かという定義をしています。それが6頁の下から6行目の所に「仏性というのは、すなわちこれ、人法二空所顕の真如」という言い方をしてきます。今まで話して来ました人我執とか法我執というのが、滅せられて、それが無くなった所に現れてくるものが、仏性であると。ですからそれが自分自身において、人我執、法我執というものが無くなる。これは観法によるものですけど、あるいは実践によるものですが、無くなっていった時に仏性というものがそこに現れてきて、その仏性というのは仏たることですから、仏様になってしまうということです。そういう形で如来性を本来我々は持っているのだと、それは隠されているだけだと、その覆いが取り除かれる、汚れが取り除かれるとそこに明々白々たる仏の世界が現れてくると言うのです。しかしそれはなかなか普通には解らないわけですけれど、そこに仏性論とか如来蔵思想というものが一つの理想主義として考えられるところがあるのですが、確かにそういうことはあるけれど、仏性というのは人法二空所顕の真如という限りでは、そういう人我執、法我執を離れた世界に仏の世界があるということが把握されていたと考えられる。それは我々の認識という構造がどうなっているかということの覚知ということとしっかり結びついていますから、その解明は人類にとっての普遍的な救いの在処を示している。
『仏性論』と同じ系統の論書とし、例えば『大乗起信論』というのがあります。この論はインド撰述か中国撰述かわからないところがありますけれど、しかし中国仏教や日本仏教に対して、非常に大きな影響力を持っております。『大乗起信論』は。ここに竹村先生という専門家がいらっしゃっていますが、この『大乗起信論』の中には非常におもしろいことが書いてありまして、一つは言葉に依る真理と、言葉を離れた真理という言葉の問題。それからもう一つは今の人法二空所顕の真如に対応するような問題でして、それが5頁の所に、覚と不覚、悟りと迷いということについて、議論があります。真ん中ごろに線を引いておきましたが、所謂覚の義とは、心体が念を離れるとあり、念を離れた様相というのは、虚空界と同じであって、遍満していると、遍ぜざること無しですね、法界は一相にして、虚空界とは一相、つまりあらゆる差別がなくなったところ、これが如来の平等法身であり、この平等法身によってそれを本覚と名付ける。本覚というのは何かというと、それは始覚ということに対して言う。これは釈尊が始めて覚ったということですが、そのとき釈尊は本覚に到達したのである。そこで始覚という意味は、本覚によるから不覚があり、不覚に依るから始覚があるという。そこで心源を悟ればこれが究竟覚ですが、それに至る三つの段階がある。まず、普通の人は、前に悪事をはたらいて後悔し、今度はやらないようにしようとするが、これは覚とは言っても不覚である。これは道徳的立場にある人のことを言っており、仏教の立場からするとこれは不覚であるという。そこで次に、相似覚というのが説かれていて、この覚の立場は、人我執を捨てた二乘(声聞・縁覚)の立場、第三番目の覚は随分覚で、これは法我執を捨てた大乗の菩薩の立場であります。究竟覚は「心の初起を覚して、心に初相無し、微細の念を遠離するが故に、心性を見ることを得る。心即ち常住なるを究竟覚と名ずく」とあります。そしてこの究竟覚が仏の悟りですから、『大乗起信論』では、四つの段階の覚を考えていた。即ち、不覚・相似覚・随分覚・究竟覚です。そしてこれを人間のランクでいうと、凡夫・二乘・菩薩・仏が対応する。そしてこのランクは固定的・絶対的なものではなくて、念の四相を無くしていくことによって、上位の悟りへと上がっていくというのであります。
ハ 仏教教義と地球平和
上述の如く、大乗仏教思想の中の主要な思想である如来蔵思想は、全ての衆生(いのち有るもの)が成仏する可能性を持っていると説き、それではどのようにしたら成仏することが出来るかという方法論を持っている、ということが出来ます。その方法論は信とか三学とか、六度四攝法とか念仏、瑜伽行等いろいろありまして、またその成仏にはどのくらいの時間がかかるのかとか、機根によって教えや時間が違うのかなどという問題が出て参ります。しかしともかく、このように多様な仏教の教義が有って、その教義を核として仏教文化が花開いた。今日、仏教寺院がやっていることは、葬式と祈祷だけではないかといった批判がよく聞かれますが、葬式や祈祷にもこれまでお話ししてきたような仏教教義の核心は、いつでも保たれているのであって、それは他の宗教に較べて遜色のあるものではない。むしろ近代の科学技術革命や環境革命の時代にあって、これを乗り切る理論的根拠を十分に提示出来る宗教であるということが出来ます。それは例えば、既にある程度論じたように、地球平和にとっての倫理的ディシプリンとして、伊東先生が提言された「不殺」「共生」「平等」といった理念が、何故そうでなければならないかという根拠を持って人々に示すことが出来る、ということによっても証明されると思います。他方、仏教以外の宗教教義ではなかなか上述のディシプリンが、誰にでも(異宗教のものにたいしても)示すことが出来るものとして、これを標榜することは難しい。動物―人間―神という存在論的な絶対的相違性に基づく宗教教義では、なかなか「不殺」等が普遍的な価値観としてね根付きがたいのではないかと思うからであります。また、仏教の四諦の思想は、前述の如く、いのち有るもの一人1人が直面している課題とその解決の方途を教えていると言うことが出来、この教えによって無常性を超克した一人1人があって初めて地球平和の問題が解決の糸口を見いだしうると考える次第です。 以上。